武田氏
武田氏(たけだし)は平安時代末~戦国時代の武家。清和源氏義光流。源義光の子・義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。甲斐国のほか、安芸国・若狭国に庶流がある。
嫡流は義清の孫・信義が継承し、鎌倉時代には御家人となって甲斐国守護に任命された。その子の信光は安芸国守護も兼任した。
源氏の名族として戦国時代には武田晴信(武田信玄)の活躍で諸国大名から畏怖されたが、信玄没後は急速に家勢が衰え、安土桃山時代には支流も含めて絶家している。
甲斐武田氏
甲斐武田氏は、清和源氏武田氏の本流であり、4代信義の代に甲斐源氏を率いて木曽義仲や源頼朝に協力して戦功をあげ甲斐国守護を任されている。南北朝時代でははじめ鎌倉幕府側についたが、後に足利尊氏に属して各地で戦功をあげて所領を広げた。国内の有力国人や内紛、周辺地域の侵攻に悩まされたが、14代信重の代に甲斐国内の安定化に成功し、18代信虎の代に積極的に隣国・信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄のとき信濃国を攻略して最盛期を迎えた。今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くす一方、北信濃地域の領有を巡って上杉謙信と戦った。今川氏が衰退した後は、東海地方を攻略した。1572年、足利義昭に呼応して上洛を開始したが、信玄の病死で武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国・遠江国・三河国・飛騨国の一部の7カ国に及ぶ領土を有したが、 天正元年(1573年)に信玄が病死し次代・武田勝頼の代になると美濃国まで進出して領土をさらに拡大する一方で次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575年)長篠の戦いの敗北で信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582年)織田信長に攻めこまれて滅亡した。
甲斐武田氏当主一覧
源義光(源頼義の子) 源義清(源義光の子) 源清光(源義清の子) 武田信義(源清光の子) 武田信光(武田信義の子) 武田信政(武田信光の子) 武田信時(武田信政の子) 武田時綱(武田信時の子) 武田信宗(武田時綱の子) 武田信武(武田信宗の子) 武田信成(武田信武の子) 武田信春(武田信成の子) 武田信満(武田信春の子) 武田信重(武田信満の子) 武田信守(武田信重の子) 武田信昌(武田信守の子) 武田信縄(武田信昌の子) 武田信虎(武田信縄の子) 武田信玄(武田信虎の子) 武田勝頼(武田信玄の子)
若狭武田氏
若狭武田氏は安芸武田氏4代・武田信繁の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命を受けて永享12年(1440年)に若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。信栄は永享13年(1441年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信賢以後、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いで安芸武田氏から分出する。武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。3代国信以降は若狭国、丹後国の両国を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵するが、京での敗戦や周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで勢力を弱め、8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行する。永禄9年(1566年)8月には姉婿の義統を頼って入国した足利義昭を庇護するが、家中の混乱を見かねた義昭一行は早々に越前朝倉氏を頼って出国し、若狭武田氏も2年後の永禄11年(1568年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。
最後の当主9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城に軟禁されていたが、天正元年(1573年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、新たに若狭国を与えられた丹羽長秀の配下となって若狭国に帰国した。天正10年(1582年)の本能寺の変では旧領回復を狙って明智光秀に加担するも敗北、丹羽長秀によって自害を命じられて、若狭武田氏は滅亡した。
若狭武田氏当主一覧
武田信栄(武田信繁の子) 武田信賢(武田信繁の子) 武田国信(武田信繁の子) 武田信親(武田国信の子) 武田元信(武田国信の子) 武田元光(武田元信の子) 武田信豊(武田元光の子) 武田義統(武田信豊の子) 武田元明(武田義統の子)
安芸武田氏
安芸武田氏は5代武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護を任じられたことから始まる。任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇の備えて石見国に銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。南北朝時代に10代武田信武が足利尊氏に属して戦功を上げた結果、甲斐国と安芸国の守護を任命され、信武次男・武田氏信が安芸守護として分家した。この氏信が安芸武田氏の初代となる。しかし氏信は応安元年(1368年)に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護は今川氏や細川氏等の足利一門が担ったが安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護として存続している。大内氏とは対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方について参戦、以降戦国時代まで尼子氏らと組んで大内氏に対抗したが、安芸武田氏9代武田信実の時代、天文10年(1541年)6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたり安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。