This article at Wikipedia

源義経

源義経(みなもとのよしつね:1159-1189)

   平安末期の源氏武将。父は源義朝(みなもとのよしとも:1123-1160)。母は九条家の雑色常盤(ときわ)。義朝の九男により、九郎義経と名乗る。源頼朝は異母兄。幼名は牛若丸(うしわかまる)。又は遮那王丸(しゃなおうまる)。

 生没年:平治元年(1159年)-文治5年閏4月30日1189年5月17日

 父義朝が平治の乱で敗死した時、乳飲み子であった義経は、ふたりの兄と共に母常磐御前の胸に抱かれて雪の降る大和(奈良県)の山中を逃亡する。しばらくして、常磐は、実母が捕まったことを知り平清盛の元に出頭する。清盛は、常磐の美貌により、妾にすることで、牛若とふたりの兄(今若、乙若)を助命する。後に常盤は公家の藤原長成に嫁ぐことになる。

 牛若が9歳(11才説も)になると、平家の目を逃れるために、鞍馬寺に預けられる。幼少期の鞍馬山での牛若伝説は、この時のエピソードがもとになって形成されたものである。その後、牛若丸16才の時、金商人金売吉次の手配により、奥州平泉に藤原秀衡(奥州藤原氏三代)を頼って下る。その旅の途中、牛若丸は、元服し自らで名を「義経」と改める。奥州で数年を送った義経は、妻を娶り、女子の父となる。この娘は後に、伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の子)に嫁がせている。

 治承4年(1180年)8月に兄頼朝が挙兵すると、義経は秀衡が停めるのも耳に入らず、その幕下に馳せ参じようとする。すると秀衡は、鎌倉に向かう義経に、佐藤継信、佐藤忠信兄弟等、およそ80騎の一騎当千の武者を差し向けてはなむけとするのだった。

 黄瀬川の陣で涙の対面を果たした運命の兄弟は、打倒平氏に向けて手を携えて進む。兄弟の蜜月時代である。その後の義経の軍功は、凄まじかった。源氏の軍勢を率いて木曽義仲を破り、次に摂津多田源氏の多田行綱らを従えて一ノ谷の戦いで平氏の軍を撃破し、残った平家の残党は屋島へと向う。義経は人生の絶頂期にあった。この活躍を目の当たりにした後白河法皇は、義経を武将としての最上の官位である五位の上に任じ、院に出入りすることを許した。しかしこのことが頼朝の逆鱗に触れた。義経としては、源家の名誉と思っての任官だったが、頼朝にとっては、たとえ弟であっても、自分の家来たる者は、まず自分の許可をとって受けるべきとの思いだった。また屋島の合戦をめぐる梶原景時との些細ないざこざが生じ、ついには景時が、鎌倉にいる頼朝に讒言(ざんげん)をするに至って、頼朝の心は、弟義経を疎んじ許さないという気持ちに固まっていったと思われる。

 それでも義経は、兵を進め文治元年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで悲願の平家打倒を果たす。さて意気揚々と壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を護送して鎌倉に入ろうとした義経だったが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかった。腰越に留め置かれた義経は、兄頼朝に対し綿々と自分が叛意のないことを書きつづるのであった。これが世にいう腰越状である。

 泣く泣く、京に戻った義経は、源行家らと頼朝打倒の旗を挙げる。後白河院より、頼朝追討の院宣が下るが、時の流れは義経には吹かなかった。義経は、体制を立て直すため、大物浦から、弁慶や愛妾の白拍子の静御前を引き連れて船団を組んで船出しようとした。行く先は西海(九州)である。ところが突如として海が荒れ出し、ほとんどの船は難破してしまい、義経らは、京都から吉野に逃亡をはかる。北陸道を経て、再び藤原秀衡を頼り、平泉に身を寄せることになった。しかし悲運は続く。父とも慕う秀衡が、文治三年(1187)10月29日、「義経を将軍とし、兄弟力をあわせて鎌倉に対抗せよ」との遺言を残して亡くなってしまうのである。この奥州の大黒柱の死後、頼朝は、嫡子藤原泰衡によりいっそう強力に圧力をかけ始める。そして文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は、500騎兵の兵をもって、わずか10数騎兵の義経を衣川館に襲って自害させてしまうのである。この時、義経は、一切戦うことをせず、持仏堂にこもって、まず妻と幼い女子を殺害し、自害して果てたのである。まだ31才の若さであった。

 非業の最期を遂げた義経の首と胴は分離される。胴は栗駒町沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。首は43日かけて鎌倉に送られ、文治5年6月13日、和田義盛と梶原景時によって、腰越の浦で首実検に処せられた。その後、首は藤沢の白旗神社付近に葬られたという。その際、首を洗うのに使われたという首洗い井戸が現在も白旗神社側(藤沢市)に残っている。

 優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び覚まし、このような心情を指して判官贔屓というようになった。次第に史実とは、大きくかけ離れ、架空の物語や伝説が次々と付加されて、義経は国民的英雄(ヒーロー)となっていった。家来である武蔵坊弁慶との五条の橋での出会い譚や、衣川合戦での弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』によって一躍有名になった物語であるが史実というよりは伝説の色合いが濃い。その後、「義経記」の取り上げたストーリーは、能や歌舞伎の題材として、広く取り上げられ、義経物などと言われて人々の人気を博した。

 このようにして、判官贔屓の心情は、さまざまな義経伝説を作りだしていった。まず源義経北行説という不死伝説がある。これは実は衣川の合戦で義経は死なず、蝦夷地へ逃亡しアイヌのオキクルミという神さまとなってアイヌの民に農業などの知恵を授けたというものである。これは江戸期に蝦夷地を実質的に支配してゆく幕府と松前藩のアイヌ民族への文化宣伝(プロパガンダ)あるいは懐柔策との見方もある。源義経にまつわる伝説は、民衆の判官贔屓の心情を背景に時代の要請に合致したヒーロー像としてを次々に創られエスカレートしてゆく。明治期になると、北海道(蝦夷地)を飛び越えて、義経は、モンゴル帝国の覇者ジンギス・カンだったという荒唐無稽な「源義経=ジンギス・カン説」まで語られるようになる。

源義経を扱った作品

• 義経記(軍記物) • 天狗の内裏(御伽草子) • 舟弁慶() • 安宅() • 勧進帳(歌舞伎) • 義経千本桜(歌舞伎) • 常陸坊海尊(演劇脚本 作 秋元松代) • 火の鳥 乱世編(漫画



This article is from Wikipedia, the Free Encyclopedia. All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.


社会 • 社会政治経済産業交通教育歴史福祉医療環境環境問題市民活動平和軍事 • 芸術と文化 • 芸術文化言語宗教遊び趣味伝統芸能文学音楽美術演劇映画アニメ漫画建築スポーツゲームギャンブル食文化ファッションマスメディア出版新聞放送テレビラジオ • 世界 • 世界アジアアフリカオセアニア北アメリカ南アメリカヨーロッパ • 日本 • 日本北海道東北関東中部近畿中国四国九州沖縄 • 学問 • 学問文学哲学倫理学心理学社会学法学経済学数学物理学化学生物学地球科学医学工学 • 自然 • 自然宇宙元素気象災害海洋生物植物動物鉱物 • 技術 • 技術コンピュータネットワークエレクトロニクスバイオテクノロジー • 資料 • 索引年表365日地図世界各国関係記事人名一覧一覧の一覧