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かみ)とは人間の及ばぬ知恵/知識/を持つとされる存在の一種で、人間を含む生命やこの世界そのものなどを創り出した存在であるとされることもある。人知を超えた力や運命と関連づけられ、信仰や畏怖の対象となる。

一般的に、「神」という単語はある能力に著しく秀でた者をさすのにも使われる。神童は若くして類稀な才能を持つ者に対して用いられる形容である。古くは雷も「かみ」と呼ぶことがあった。cf.「神」を使ったいくつかの特殊な言い回し(神隠し、山の神)

人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることを観察できるわけではないことから、神の存在を疑う者も多い。

現代日本においては、日常生活において神を意識しない人は多数派に属すると思われる。神が存在しないことを信じる者は無神論者と呼ばれ、神が存在するかどうかを知りえないと考える者は不可知論者と呼ばれることがある。また、信仰を持つ人々の間でも、神との直接の遭遇は特別な経験であると考えられることが多い。

現代日本における神

現代日本においては、特定の宗教の熱心な信者は、他の国々と比べて必ずしも数が多くない。その一方で、各宗教団体が発表する公式の信者数の統計を加算すると日本の総人口を遥かに上回る数になったり、複数の信仰と結びついた儀式やまつりごとに同一の人間が参加したりすることも見られる。新年の初詣受験の願掛け、家を建てる際などのお祓い、クリスマス、結婚式、葬式など、人々が多少なりとも宗教と関わる場面は、日々の生活の一部ではないとしても人生の節目や年間の恒例行事などの形で存在している。

また、仏教の教義では神とは呼ばない仏教のユダヤ教キリスト教イスラム教唯一神も、日本では「神」の範疇に含むことが一般的である。こうしたことから、日本人が無宗教的である、または宗教観に節操がないという認識が比較的一般的である。

但し、日本においては、神道及び仏教による多神教的伝統から、複数の神や宗教観の存在・並立を容認する風土がある。そのように「神々」に対して寛容で世俗的ですらある日本人の伝統的宗教観を無視した批判であると言えなくもない。

また、一般に、多くの日本人は神について口にすることを必ずしも恐れ多いこととはしない場合も多いように思われる。「触らぬ神に祟りなし」「捨てる神あれば拾う神あり」など神の語を含んだ諺があり、漫画や歌などにも、「神様」が登場することもある。

神の性質についての様々な考え方

神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。ちなみに、これらの考え方の中には互いに両立しないものもあるが、そうでないものもある。

• 造物主、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行った時に、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。 • アニミズム(汎神論)における神。岩や山、水など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。 • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする考え方がある。例えばアインシュタインやスピノザはこのような考え方をとったことで知られている。 • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は祈り、信仰、犠牲などに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方がある。 • 人格神。神が人と同じような姿や人格を持つとする考え方がある。

多神教一神教の社会的な性格

一神教が、その性格上、他の宗教に対して排他的なのにくらべ、多神教は、他の宗教を「神の一人」として取り込んで来た歴史がある。そのことは、社会的なレベルに今も影響しているように見える。

多神教の例として、インドヒンドゥー教と日本の神道がある。どちらも、別の宗教を神の一人として受け入れ他の民族や宗教をある程度取り込んで来た。完全に否定したり、改宗を強要したりすることはすくなかったように見える。現在は仏教と神道は日本において分かれているが、明治以前は区別がすくなく混じりあっていた。

唯一神教の例として、ユダヤ教キリスト教イスラム教がある。どれも、別の宗教を受け入れることはなく、時としては異端として排除したり改宗を強制してきた歴史がある。また、それぞれ起源を同じくするユダヤ教、キリスト教、イスラム教どうしも排他的な性格が強い。

また、多神教は原始宗教を起源にする場合が多い。現在も存在する原始宗教においては、自然の多くの存在を神とみなす。(例: 原アメリカ人の宗教性、原オーストラリアの宗教性)。日本の神道は、日本の原始宗教を起源にしている。ヒンドゥー教もまた原始宗教的な要素を残している。

イスラム教はムハンマドによって、ユダヤ教を元に大幅に新しい体系が作り上げられた。キリスト教もまた、ユダヤ教を元に大幅に新しい体系が作られている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられていると思われる。

仏教は本来は無神教である。また、現在は神と同様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自分を神として崇拝することも許さなかった。

さて、この仏教の無神性が他の多神教と結び付く原因になったと思われる。後の時代になって、仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。人間は神なしではいられないらしい。大乗仏教では自体も事実上は有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。

現在は日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそも仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスワティであり、仏教とともに日本に伝わった。やがて日本の市杵島姫神と習合した。(神仏習合本地垂迹説)

なお、仏陀は自分の姿を記録したり崇拝することを許さなかったが、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。しかし死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。人間はここでもやはり誰かを拝めないといられないらしい。

なお、一神教の宗教においても神の下位に存在する人間を超えた知的存在を体系の中に持っており、事実上では一般に言う神の働きをしていることも多い。例えば、ユダヤ教では天使が、人間以上だが神以下の存在である。ユダヤ教を起源とするキリスト教やイスラム教も同じ天使を含んでいる。この天使はある時は普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護する存在であったり、特定のご利益をもたらしたりするという信仰もある。イスラム世界ではジンという一種の精霊が知られている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプの精が有名)。

また、多神教においても、最初の神や、中心的存在の神が体系に存在する。しかし、中心的な神も特に他の神と同じ性質を持っていたり、最初の神は体系のごく少ない一部であったり、経典の最初に名前とエピソードが出て来るだけで、体系の中における役割が少ない場合が多い。一神教における神のように、排他的な振舞いをすることはない。

神道においては、明治以降にキリスト教文化に対抗する目的で一神教を意識した体系として国家神道が再構成されている。その後、新しい体系はゆるめられたが現在も影響は強く残っている。

なお、それ以前にも神道は当時の政府の支配体制を強めるために、古事記の編集されたときにも体系が作り変えられている。体系が作り変えられる以前の神道を古神道(原始神道)と呼ぶ場合がある。

なお、以前は排他的で他の宗教の存在を許さなかったキリスト教世界においても、現在は科学の進歩の影響により、以前は弾圧されていたような内容が広まって来ており、ニューエイジと呼ばれる。なお、ニューエイジは主にアメリカで始まり、インディアンの宗教性の影響が強い。またヨーロッパで過去に弾圧された内容が堀起こされている。

自然の存在を神と呼ぶ場合と、神の起源を現存した人に持つ場合

唯一神教においては、神は唯一の絶対的な存在であり、この宇宙を作った存在なので起源を人にしていない。あくまで絶対的な存在である。神の以前には何も存在せず、神は現在も意志をもって影響を与えている場合が多い。人間のような振舞いを見せることもある。

多神教においては、起源を実存した人間におく神と、そうではない神が存在する。また、その両方をもつ宗教的体系も存在する。例として日本の神道とインドのヒンドゥー教があげられる。なお、5世紀から7世紀頃(?)にインドからバラモンがやって来ておりそこからの影響があるかもしれない。

なお、バラモン教はヒンドゥー教に現在含まれる古い体系で、バラモン教の僧がバラモンと呼ばれた。5世紀ころインドでは仏教が大きな弾圧を受けており、仏教関係者が国外に脱出しており、仏教の影響がアジア全域に広がるきっかけになっている。

実存した人を起源に持たない神(以降「自然神」と書く)は、概念的な神であったり、自然の一部であったりする。また、概念的な神が山や岩、古い木などの自然の一部に宿る場合もある。また、単に古かったり大きな自然の一部がそのまま神とされる場合もある。

実存した人を起源に持つ神(以後「人間神」と書く)は、生前に特に著明な働きをしたり、神との接触を得たとされる場合がある。なお、神道においては、祀られた人物は全て神であるとされており、特に大きく祭られている人間神も、彼らだけが特別に神として扱われているわけではない。単に有名なだけである。

なお、神道では逆に生前に大きな力を持っていた人が、後にひどい扱いを受けて生涯を終えた場合に、特にその後に大きな災害などが起きた場合、その人を大きく祭りあげる事がある(例: 御霊信仰)。災害の原因をその人の怨みにあるとして、祭りあげることでその怨みを解消し、さらにはその災害をもたらした強大な力を利用して自分たちに有利な御利益を期待する。

ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。

シヴァは実存した人物で112の瞑想テクニックなどを残しているが、ヒンドゥー教の体系の中では、三つの重要な神として扱われ、世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。現在は神として扱われている。

ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としているが、三つの重要な神のひとつで世界を維持する役目がある。多くの(10?)人として生まれ変わっており、偉大な仕事をした人を後にヒンドゥー教の体系に組み込むために生まれ変わりとされた場合がある。ちなみに、仏教の開祖ゴータマ・ブッダはヒンドゥー教の体系ではヴィシュヌの生まれ変わりで人々を惑わすために現われたとされる。

ブラフマン(梵天)も、三つの重要な神のひとつで、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。自然神としてのみ扱われているのか、対応する実存の人物もいない。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

ブッダ(仏)と神

仏教などのヴェーダンタ系の宗教における仏陀を「内なる神」と呼んだり説明する場合がある。しかし一般的には、神は「我々の外にいて、我々とは違う存在で、我々の運命を決めたり、我々を何らかの形で支配する存在」である場合が多く、それと区別するために神の名前を使わない場合が多い。我々それぞれ全ての存在の中心には、内なる神がいてそれをブッダと呼んだり、内なる神が目覚めた存在をブッダと呼んだりする。

宇宙全体または存在全体を知性を備えた物と捉え、これを「存在」として意識体のように言う場合もある。これは絶対神のようにも見えるが、「存在」には我々も含まれているので、われわれの外側にいる神ではない。我々を含んだ広大な神である。しかしそれは存在を司っているので神である。

「全体的な存在としての神」(ブラフマン)と、「個の中心にいる神」(アートマン、ブッダ)は同一とされる。これが梵我一如である。人間意識は、どちらにも到達できるとされる。

ブッダの名前や概念はゴータマ・ブッダ以前から内なる神(神性)が目覚めた存在を呼ぶ名で、ゴータマ・ブッダ以前にもブッダは数多く存在した。「ブッダ」以外にも呼び名が多く、別の名で呼ばれる場合もある。

一般に、仏教では神の存在を扱わないが、ゴータマ・ブッダの対話に以下の例がある。

『朝、ある人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在しない」と答えた。
昼に、別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在する」と答えた。
夜になって、また別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は目を閉じた。質問した人物も目を閉じて座っていた。そこに長い沈黙があり、しばらくして質問者は涙を流しながら、「ありがとうございました」と言って帰って行った。
深夜になって、アーナンダは仏陀に質問した。アーナンダは仏陀のいとこでいつでも仏陀の側にいて世話をしていた。「朝、昼、夜のあなたの答えは私を混乱させます。どうか説明して下さい」
仏陀は答えて言った。「まず第一にそれはあなたに対して答えられたものではない。あなたはそれを自分への言葉として受け取るべきではなかった。」
「朝来た人物は有神論者だった。私が神が存在すると言ったら、それは彼の信じ込みを強めるだけだった。」
「昼来た人物は無神論者だった。私が神は存在しないと言ったら、それも彼の信じ込みを強めて、真理への到達の邪魔をするだけだった」
「夜来た人物は、信じ込むタイプの人物ではなく、真実を知る準備が出来ていた。私は真実を示し、彼はそれを受け取って帰って行った。アーナンダよ、真実は語ることは出来ない。私は道を指し示すことができるだけだ」』
なお、神道において人は死ぬと誰もが神になると言われる。この点で仏教と神道は一致することが出来たので、仏教伝来後の日本では、神道と仏教の繋がりは強く長かった。

また、ベーダンタ系の宗教でも、いわゆる「神々」に対する説明がある。七つの身体論によると第四身体に意識的に到達した人物が肉体を離れると、その空間(メンタル界)に意識的に留まることができ好きなだけ留まることができる。肉体を持たずにこの世界にやって来たり、影響を与えることができる。これが、いわゆる神々であったり、いわゆる神のように振舞うことが出来る。

ゴータマ・ブッダが光明を得た後、沈黙していたので神々がやって来て彼に光明を和かち合うことを勧めたのは、このような存在だと言われる。神々も光明を得るためには、肉体に入る必要があり、人間としてもう一度生まれる必要があるとされる。人間の肉体にいる間に第五身体以上に到達する必要がある。

関連項目

神の一覧日本の神の一覧

形而上学 • 有神論 • 無神論不可知論 • 懐疑論 • 神の存在証明 • 受肉 • 暗黙知




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