第二次ポーランド楽派
ジェネレーション51結成をもって、第二次ポーランド楽派(だいにじポーランドがくは)誕生とみなされる。三人ともヘンリク・ミコワイ・グレツキ門下生だった。その中のクシャノフスキは39歳で1990年に早逝した。カジミエシ・シコルスキの息子、トマシュ・シコルスキも世代的には第一次ポーランド楽派の中に入るものの、ミニマリズムへ積極的な態度を取った為この楽派に含まれるが、アルコール中毒のため彼も49歳で1988年に病没した。この二人の死を以って、ポーランドから世界的な作曲家を輩出する神話は終結したとみなしてよい。リディア・チェリンスカやパヴェル・シマヌスキらもこの世代に該当し、新ロマン主義の流行の中で全体的に折衷的な語法を用いていた為もあって、第一次ポーランド楽派ほどの知名度には到らなかった。第一次ポーランド楽派の遺産を継承して出発したかどうかは、現在も意見がわかれる。前述のグレツキがサクレド・ミニマリズムに転向したり、第一次に属する世代そのものが作曲態度を緩めているので、世代間の断絶はそれほど起きていないと解する事も可能である。しかし、ポーランドから音楽言語を世界へばら撒くといった強迫観念のようなものは見当たらず、その点では世代交代とみなすこともできる。
この楽派のうち、最も商業的に成功を収めたのはハンナ・クレンティーである。第一次ポーランド楽派のうちで同じような成功を収めた人物にクシシュトフ・ペンデレツキがいることを考えると、彼女の創作寿命も恐らく短くなるのではないだろうか。最近発表された彼女のトランペット協奏曲は、衰退の第一歩と考えられる。
スイスへ移住したベッティナ・スクルィチャクを含めても60年代生まれのポーランドの作曲家は層が薄く、1971年生まれの奇跡的な爆発を待たなければならなくなった。