生物学
生物学 (せいぶつがく, 英語: Biology バイオロジー) は生物や生命現象を研究する自然科学の一分野。広義には医学や農学なども含み、狭義には基礎科学 (理学) の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。類義語として生命科学 (Life science) や生物科学 (Bioscience) がある。我々ヒトは生物であり、他の生物との関わりの中で暮らしてきたことから、生物を理解しようと試みる生物学は人間の本質的な欲求の一つであると言えよう。生物の多様性と普遍性を理解することが生物学・生命科学の目的である。扱う対象の大きさは、一分子細胞生物学における「細胞内の一分子の挙動」から、生態学における「生物圏レベルの現象」まで幅広い。
生物学研究の成果は医療や農業への応用面で人類に大きな利益をもたらしている。関連する産業はバイオ産業と呼ばれ、IT産業と並び発展性のある大きな市場を形成し経済的にも重要な位置にある。さらに生物学の知見や技術は生命の根幹に大きく関わるようになってきており、倫理的・社会的な影響も注目されている。
- Wikipedia:ウィキポータル 生物学も併せて参照のこと
生物学の考え方
主要項目: 科学哲学、生物哲学
生物学では記載、実験、理論によって研究が行われる。これらは独立したものではなく、それぞれが関連し合って一連の研究を形作る。記載とは、詳細な観察に基づいて、基礎となる事象を明らかにすることであり、研究において最も始めに行われる過程である。生物種を同定するための形態学的観察をはじめとして、実験操作を加えない状態での発生現象や細胞の構造、ひいてはゲノム配列の解読も記載と言える。
現代生物学では実験生物学の性質が強い。実験は人為的に操作を加えることで、その後の変化を観察する。突然変異の誘発や、遺伝子導入、移植実験など様々な手法が用いられる。一方、進化や生物圏レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合や、バイオインフォマティクスのように膨大なデータを統合して理解しようとする場合、理論によるアプローチに重点が置かれる。また実験を行う前に仮説を立て結果を予想することも理論の一部である。
生物学者は機械論・唯物論の立場を取り、生物は物質から構成された複雑な機械であると考える。還元主義の有効性は失われていないものの、生物を複雑系としてとらえる考え方も発展してきている。
生物学ではヒトを特別な生物として扱うことはないが、生物学者をはじめとして我々はヒトであり、医療、農業、産業などと関連しているため、ヒト研究に対する関心は高い。
生物学の諸分野
生物学の諸分野はその研究対象や研究に用いる手法によって分類される。
歴史的には、生物学が誕生する以前の古代ギリシャ時代から動物学と植物学があり、主に形態学、分類学、薬学的研究が行われていた。顕微鏡が発明されるとより微細な構造を扱う細胞学や微生物学が誕生した。同じ頃、化学の発達にともない生理学や生化学が生まれた。また動物学と植物学からそれぞれの発生学、遺伝法則の発見から遺伝学が誕生する。20世紀に入るまで、これらはそれぞれ独自の手法や観点から異なる対象を研究し、分野間の重複は僅かであった。
20世紀後半の分子生物学の爆発的な発展以降、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界は曖昧になり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えばイモリの足の再生を研究し「再生生物学」という名称を用いるとしても、再生に関わる遺伝子については遺伝学や分子生物学、その遺伝子産物の生化学的性質は生化学、再生する細胞の挙動は細胞生物学、組織が正確に再生する仕組みは発生生物学、等など様々な分野が関連してくる。ただし、伝統や研究の特徴によって諸分野の名称は今後も用いられるだろう。古典的な名称は「--学」が多く、新しい名称は「--生物学」または「--科学」であることが多い。なお、このような経緯から生物学に代わって、横断的・総合的な生命研究という意味を持たせた生命科学と言う言葉が用いられはじめた。
生態学や動物行動学は個体レベル以上の現象を研究する分野であり、分子生物学の影響を直接には受けていないことで他の分野と趣が異なる。
分野名一覧 (50音順): 遺伝学 - ウイルス学 - 宇宙生物学 - 解剖学 - 環境学 - ゲノミクス - 構造生物学 - 行動学 - 古生物学 - 細菌学 - 細胞生物学 - 集団遺伝学 - 植物学 - 性科学 - 生化学 - 生態学 - 生物物理学 - 生理学 - 動物学 - 脳科学 - 微生物学 - 分子遺伝学 - 分子生物学 - バイオインフォマティックス - 発生学 - 発生生物学 - 発生遺伝学 - 分類学 - 免疫学
生物学と関連する分野
生物学は、様々な形で他の学問分野と関係している。
概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた分野としては、先に発展していた物理学と化学が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。また、数学は自然科学の基礎として生物学に影響を与えている。特に、数理生物学や集団遺伝学などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。また、近年ゲノミクスやプロテオミクスなどの分野では、膨大なデータを処理する必要が生じており、バイオインフォマティクス (生物情報学) と呼ばれる分野では情報学の方法論が取り入れられている。
生物学と相互に影響しあっている分野も数多く存在する。生態学は理論面において経済学と強い関連があり、地球科学と観測技術を共有する。これらの影響は一方から他方への影響というよりも相互的なものである。同様に、医学、農学、薬学は研究対象、研究成果を大きく共有しており、今後も密接に関連ながら発展していくと考えられる。
人文科学系の分野としては、自然哲学の一分野である生物哲学、倫理面を研究する生命倫理学などが生物学と対象を共有している。また、科学史の一分野である生物学史は生物学を研究対象として扱う。
生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ハーバート・スペンサーやエミール・デュルケームなど社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論は、社会学の中でも多く知られているが、ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもあるスペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論には他にもマーシャル・マクルーハンによるメディア論や梅棹忠夫による情報産業論など広く知られたものが多くある。
システム理論やサイバネティックスは生物学による生命体の理解を手がかりに、秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。
生物学の現在
主要項目: ゲノム - バイオテクノロジー - バイオ産業
これまで生物学、特に分子生物学周辺の分野では、一つの遺伝子・タンパク質の機能に注目し、還元主義的なアプローチがメインであった。この手法は強力で様々な生命現象を解き明かしてきたが、還元主義のみでは限界があることもわかってきた。例えば分子レベルで明らかにしたことを組み合わせても脳や行動など複雑な現象は理解しがたい。このことへの反省もあり、近年は生物を複雑な系としてそのまま扱うアプローチがとられはじめている。
DNA の構造決定は一つのパラダイムシフトとなり、分子生物学は生物の普遍性に焦点を当ててきた。しかし生物学はその誕生から生物多様性を理解しようとしてきた歴史があり、進化や生物資源、環境保護、遺伝病などを理解する上で必須である。技術の発展によりゲノムプロジェクトによる全ゲノム配列解読が可能になったことは、多様性と普遍性を結び付ける上で次のパラダイムシフトとなっている。
生物学に関連する産業はバイオ産業と呼ばれ、ITとならんで勢いのある市場でベンチャー企業が次々と誕生している。遺伝子治療、幹細胞を用いた再生医学、一塩基多型を用いたオーダメイド医療やゲノム創薬などが注目されている。
生物学の今後
生物学が自然史学の一部であった頃は記載生物学が主だった。将来はゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータをコンピュータで処理し、そこから生命の原理に迫る理論生物学が主体になっていくかもしれない。
生命の起源: 既に起きてしまった生命の起源や進化は、実験による検証が不可能な問題である。しかし、生物物理や生化学的に生命 (細胞) を再構成する試みが行われており、いずれ人工生命が誕生し、生命誕生を解明する手がかりとなるだろう。
精神: ヒトの精神や心理は複雑すぎて生物学で扱う範囲を超えている。しかし、脳科学研究などが進むことでいずれは精神も物理の言葉で記述できるようになり、心理学・精神医学と生物学は統合していくことだろう。
地球外生命体: 地球以外に生命は存在するのか?現在のところ生物学者の多くは、まだこれは生物学のテーマではないと考えている。しかし、火星やその他の惑星、衛星の探索が進み、生命やその痕跡が発見されれば、重要なテーマの一つとなるだろう。(→宇宙生物学)
現代生物学の抱える倫理的・社会的問題
現代生物学はさまざまな倫理的な問題を抱えている。それらはゲノム情報、遺伝子操作、クローン技術など、生命の根幹に関わる技術や情報と共に人類にもたらされた。これらは、臨床医療において人類に恩恵をもたらす一方で、差別や生命の軽視など深刻な社会問題を引き起こしうる。
マクロのレベルでは、遺伝子操作によってられた遺伝子組み換え (GM) 作物 の環境への影響 (遺伝子汚染) や、環境破壊によって生物多様性が急速に失われて行くことに対する取り組みも必要とされている。(メダカの項目に例がある)
現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的な説明責任を果たしてゆくことが求められている。(アシロマ会議も参照)
生物学史概略
主要項目: 生物学史 - 生物学に関する年表
生物学の萌芽は古代ギリシャのアリストテレスやヒポクラテスなどの著作に見られる。アリストテレスを生物学の祖とみることもできる。しかしこれらは生気論・目的論的であった。これは現在の生物学と相容れない観念である。従って現代生物学の系譜は17世紀の科学革命を経て自然科学が成立した近世以降に始まる。
近代生物学は、動植物や鉱物などを記載・分類する自然史学 (博物学) の一分野として始まった。18世紀にリンネが二名法を用いた生物の分類を確立し、生物を系統的に分類することができるようになったことが契機となる。生物多様性を探究する流れは生物学誕生当初から存在していたと言える。ただし当時は動物学と植物学が個別にあり、生物学という分野は存在しなかった。
19世紀には顕微鏡を用いた観察により「全ての生物は細胞からできている」という細胞説が提唱された。このことにより動物学と植物学が統合され生物学というくくりで扱われるようになった。パスツールの実験により、生物は自然に誕生するという自然発生説が否定され、「全ての細胞は細胞から生じる」ことが理解された。自然発生説の否定は進化論とも関連し、生物学に生命の起原という新たな問題を提起した。生物多様性と系統分類について考察したダーウィンが「種の起源」で提唱した進化という概念は、現代生物学の前提となっており、生物学以外の多くの分野にも影響を及ぼしている。
19世紀後半にはメンデルが遺伝の法則を発見し、遺伝粒子(遺伝子)の存在を示唆した。細胞学の発展とともに細胞分裂や染色体に関する知見が得られ、20世紀初頭にはモーガンらはショウジョウバエを用いた研究により遺伝子を染色体と関連づけた。またX線照射が突然変異を誘発することが確認され、遺伝子が確固たる物質であることが証明された。
20世紀中頃には遺伝物質がDNAであることが確定され、DNAの二重らせん構造が明らかにされた。遺伝物質として DNA の構造が明らかになったことは生物学に非常に大きな進展をもたらした。突然変異はDNAの塩基配列の変化であることがわかり、これまで別々に扱われていた進化と遺伝が結び付けられた。セントラルドグマにより遺伝子発現が定義され、生物の普遍性・共通性の理解を目指した流れが大きくなった。DNA を直接扱う分子生物学の方法論は他の分野にも大きな影響を与え、また人類は生物を短期間に不可逆的に変化させうる技術を獲得したことになる。
20世紀後半にショウジョウバエから発見されたホメオボックスは生物の共通性理解を深めることになった。ホメオボックスはショウジョウバエだけでなく、ヒトから線虫、植物、酵母にまで存在していることが明らかになり、生物は発生のような複雑な現象においても、基本的には共通の系を使っていることがわかった。これによりモデル生物を用いて研究を行うことで、普遍的な生命現象に迫ることができることが示された。
技術発展は生物の全塩基配列(ゲノム)を解読することを可能にし、ゲノムは生物の多様性と普遍性を統合しうる視点を生物学にもたらした。現在では様々なモデル生物のゲノムプロジェクトが進行しており、次の潮流となっている。ゲノム配列の決定は研究手段にも大きな影響を及ぼしている。
「生物学」と「生命科学」
Biology という語は「生命」を意味するギリシャ語の βίος (bios) と「言葉・論」を意味する λόγος (logos) から造られ、K. F. ブルダッハ (1800年)、G. R. トレヴィラヌス (1802年)、J.-B. ラマルク (1802年)らによって独立に用いられた。様々な生物を分類記載する自然史学から発展したことからもわかるように、生物学には生物の多様性を理解しようとする伝統がある。
一方、生命科学 (Life science) や生物科学 (Bioscience, Biological science) という語は新しく、分子生物学の誕生以降に作られたものである。分子生物学が DNA という全ての生物に共通する「言葉」を提供したことで、分野ごとに断片化していた生物学が統合していく。そこで新たに生命科学という言葉が用いられるようになった。生命科学では生命現象の普遍性を重視し、心理学や人間科学までも含み自然科学の範疇を越え、ヒト研究を中心とした総合科学を目指すとされる。ただし生物学も生命科学も広義に解釈すると範囲は広く重なり、実際の生物研究をどちらかにわけることは難しい。また生物学が意味するものも時代とともに変化しており、しばしば生物学は生物科学や生命科学と同義に用いられる。
生物学のキーワード
網羅的なリストは生物学に関する記事の一覧を参照。
生物・生命: 生体物質: 水 - タンパク質(アミノ酸, 酵素)- 炭水化物 - 脂質 - 核酸 (DNA, RNA) 生物の分類: 種 - ドメイン - 古細菌 - 真正細菌 - 真核生物 - モネラ界 - 原生生物界 - 菌界 - 植物界 - 動物界 - ウイルス 進化: 進化論 - ダーウィニズム - ネオダーウィニズム - 中立進化説 - 自然選択説 - 生命の起源 生態系: 自然 - 環境 - 生物圏 - 生物多様性 - 食物連鎖 細胞: 真核細胞 - 原核生物 - 単細胞生物 - 多細胞生物 細胞分裂 - 細胞周期 - 細胞接着 - 細胞壁 - 細胞膜(生体膜)- 細胞骨格 細胞小器官: 細胞核 - リボソーム - 小胞体 - ゴルジ体 - ミトコンドリア - 葉緑体 遺伝子: 遺伝 - メンデルの法則 - 突然変異 - コドン 遺伝子発現: セントラルドグマ - 複製 (DNA) - 転写 - 翻訳 ゲノム: ゲノムプロジェクト - バイオインフォマティクス - プロテオーム 染色体: クロマチン - ヒストン - セントロメア - テロメア - 染色体異常 生化学反応: 代謝 - 呼吸 - 光合成 - シグナル伝達 生殖: 性 - 受精 - 性決定 - 性染色体 多細胞生物: 発生 - 老化 - 再生 - 神経 - 免疫 - がん
バイオテクノロジー: PCR - クローニング - 遺伝子組み換え作物 - 再生医療 モデル生物: ファージ - 大腸菌 - 出芽酵母 - C. elegans - ショウジョウバエ - ゼブラフィッシュ - メダカ - アフリカツメガエル - マウス - ラット - 培養細胞
生物学的階層性: 分子 < 生体高分子 < 細胞小器官 < 細胞 < 組織 < 器官 < 個体 個体 < 個体群 < 生物群集 < 生態系・進化(< 宇宙)
関連項目
生物学に関する記事の一覧: 関連語句の一覧。 生物学者の一覧: 著名な生物学者の一覧。 ノーベル生理学・医学賞: ノーベル生理学・医学賞とその受賞者リスト。 生物学に関する年表 Wikipedia:ウィキポータル 生物学
参考文献
生物学のすすめ: J. メイナード=スミス 岩波 生物学辞典