萌えアニメ
萌えアニメとは、魅力的な女性キャラクターによって主に男性視聴者の萌えを刺激するようなアニメを指す。極めて曖昧な定義であるが、その理由は以下述べる。
概要
萌えアニメは最近特に増えてきたアニメの類型の一つと言われており、明確な定義を与えることさえ困難である。それは、萌えという極めて個人的な感情をもってその定義としているため、人によって何が萌えアニメに該当するのかということがまちまちであるためである。
その一例としては、幼児向けアニメ若しくは少女向けアニメであるおジャ魔女どれみの登場キャラクター達やコメットさんに萌える人間がいる一方で、エロゲー原作のアニメのキャラクターに萌える人間がいるという混沌とした状況がある。しかも、前者のどれみやらコメットさんやらといった作品はキャラクター描写の単純化が著しい一方で、後者に属する作品の女性キャラクターは大抵の場合セックスアピールが強めに描かれているなど、ジャンル面だけではなく、ビジュアル面での隔たりも極めて大きい。
このような状態で、定義らしきものを設定するならば、それは冒頭に掲げたような、魅力的な女性によって視聴者の萌えを刺激する、というような最大公約数的な定義しか提示することができないといえる。それは、同時にあらゆるアニメが、それによって萌える人間がいる以上、萌えアニメとなる可能性を排除できないということでもある。
2004年現在「萌えアニメ」と呼ばれる傾向には、若干のブレーキがかかりつつある。カードキャプターさくら第一話放映からカスミン最終話放映の数年間を萌え全盛と捉える事に、異論はないのではあるまいか?その間はヴァーチャルネットアイドルと呼ばれるフォーマットのWEBが流行した時期と一致し、両者共「萌えるキャラクターが、特に頼まれてもいないのになぜか活躍する」という点に於いて共通する。
定義
上記のとおり、ここでは、萌えアニメとは、魅力的な女性キャラクターによって主に男性視聴者の萌えを刺激するようなアニメを指すこととする。ただし、その萌えの内容については千差万別であり、使用者の主観に依拠しているものとする。
問題点
このような状態であるにも関わらず、最近、萌えアニメという言葉は極めて頻繁に使用されている。それは使用者が実際にそのアニメに萌えを刺激されたということもあるが、それよりもこの言葉はアニメ批判とレッテル貼りの道具として使われることが多いためである。
通常○○アニメと標記する場合、そのアニメは○○を中心として構成されているという理解をすることが暗黙の了解となっているといえる。例えばSFアニメと書けば、そのアニメはSFに準拠する設定を中心とした物語であると理解されることになる。しかし、その一方で、SFアニメという標記にはそれ以外の要素が含まれているということを暗黙のうちに排除するという性質も有している。つまり、仮にSF要素を盛り込んだ舞台での三角関係を中心にしたアニメであれば、それはSF恋愛アニメとでも標記しなければ、その概要が正確に第三者に伝わるとは限らない、ということである。
そして同様の現象が『萌えアニメ』という言葉にも付き纏う。つまりこの言葉を用いた場合、そのアニメには「萌え」以外の要素は排除されているという印象を与える可能性が高いのである。さらに「萌え」が個人の感情的な要素に支配されている以上、『萌えアニメ』は特定の人間に対して扇情的であるだけで中身が何もないアニメである、という意味に容易になりうるということである。
このことにより、この言葉はアニメ批判とレッテル貼りの道具として頻繁に使用される状態になっている。
アニオタ世代間の対立を反映する『萌えアニメ』
では、『萌えアニメ』なる言葉を用いてアニメ批判などを行うような状況は、どのようなものがあるのかということになるが、ここで重要な点は、この言葉が最近用いられるようになってきたということである。女性が多数登場したり男女の恋愛を用いたアニメは昔から枚挙に暇がないにも関わらずである。つまり、ネガティブな意味でこの言葉をレッテル貼り等に使用する者は、最近のアニメとそのファンに対して不満を抱いている、ということが推測できるのである。
確かに最近のアニメはハーレムアニメなどという女性が大量に登場するものがあるように、女性キャラクターの登場頻度が極めて高くなっている。これらは、それを疎ましく思う向きからみれば極めて軟派なアニメであり、高尚な思想など微塵も持たない劣情を煽るだけの下劣なアニメと理解されることになる。
このような考え方は、70~80年代にピークを迎えた旧世代のアニメのファンには典型的である。当時のアニメはリアルロボットもので戦争を悲劇的に扱ったものが多く、人の生き死にの儚さや戦争の空しさを暗に訴えるといった、当時の戦後世代の精神風土を反映させたものが多い。その典型例は言うまでもなくガンダムである。また、90年代に現れた自分探しの過程を描くアニメ、典型例は新世紀エヴァンゲリオンだが、も衒学的であったり幻想的であったりするガジェットがそのアニメ自身を何か高尚な思想の発露であるかのように演出している。
そして、このようなアニメを元にアニメオタクとなった旧世代のアニオタは、アニメを哲学か何かと混同して捉えているフシがあり、高尚な思想的背景を持っているアニメこそ評価に値するという嗜好を持っている。また、そうでなくとも、世代間対立にありがちな理由でもある、「昔は良かった、今はけしからん」という意識も、このような考え方を抱かせる要因であるといえる。登場頻度が少なく個性ある単体の女性キャラクターへの憧憬から、登場頻度は多く個性無き複数の女性キャラクターへの欲情へ変化した、と理解することは一応可能ではある。しかし、キャラクターへ詰め込まれる設定の量にそれほどの変化はないという意見もある。
一方で、現在『萌えアニメ』と呼ばれる類のアニメが増えているということは、それなりの需要があるということである。求められていない商品を懸命に作っても無意味であり、市場が求める商品がより普及するというのはこの社会の鉄則であるからだ。しかし、旧世代のアニオタはこのこと自体が気に入らない。そして、「萌え」しかない『萌えアニメ』に存在価値などない、このようなアニメが氾濫するから日本のアニメの質が落ちるのだ、このようなアニメを支持する手合いも論外である、『萌えアニメ』など妄想に浸るしか能のないアニオタの見るものだ、等々、激しい憤りが『萌えアニメ』という言葉に込められて用いられるようになっていった。
かくして、アニメに対するスタンスの違う世代間の対立の一環として、意味が曖昧なまま用いられる萌えアニメという言葉がレッテル張りの道具としての『萌えアニメ』としてクローズアップされるという状態になっているのである。シスター・プリンセスによって最飽和点に達したかと思われた「妹萌え」すら、恋風は巧妙な設定によってやすやすと乗り越えた。『萌えアニメ』は未だ現在進行中の鉱脈なのである。