聖霊
聖霊とは、キリスト教の正典のひとつてある新約聖書に登場するギリシャ語のπνευμα(プネウマ)、ヘブライ語のルーアハのこと。特にカトリック教会、東方正教会、プロテスタント教会の三位一体という教理で、神の三つの位格(ペルソナ)の内のひとつ。東方正教会に属する日本ハリストス正教会では、聖神(せいしん)または神聖神(かみせいしん)という。
キリスト教では、「せいれい」と発音して、「聖隷」、つまり神のしもべ、召使を意味することもあるので、どういう漢字で表記するか確認することが必要。「聖霊」も「聖隷」もキリスト教系の病院の名前に時折見ることが出来る。
旧約における例
それとは別に、聖書の中には火の柱、燃える藪、霊的な息吹(Pneuma)といって神秘的な秘蹟の記述があり、そのうちの霊的な息吹、「風はいずこより来たりて、いずこへ行くかを知らず。されど、風の吹くところいのちが生まれる」というふうにそっけなく訳されたりしているが、この「風」が元のヘブライ語では、ルーアハである。霊的な息吹、気、空気、精神、霊、そして「聖霊」とも訳される。
関連項目
堅信 ペンテコステ運動 エホバの証人による理解
人格的存在ではなかった
聖霊は人格的存在であり、“神”の一部であるという教え(三位一体論)は、紀元4世紀になって初めてカトリック教会の公式の教義となった。初期の教会の“教父たち”はそのような教え方をしなかった。紀元2世紀の殉教者ユスティヌスは、聖霊は『影響力、もしくは神の活動の一形態』であると教えた。同様に、ヒッポリュトスも聖霊を性格を有するものとはみなさなかった。聖書それ自体は、神の聖霊が人格的存在ではなく、神がご自分の目的を成し遂げ、ご意志を実行する手だてとしての活動する力であることを示す点で一致している。まず最初に、古い翻訳に見られるヨハネ第一 5章7節の「天において……御父、御言葉、御霊……この三つは一つなり」(「ジェームズ王欽定訳」[1611年])という言葉は、実際には元の本文に付け加えられた偽筆の句であることに注目できる。カトリックの翻訳であるエルサレム聖書の脚注は、これらの言葉は「初期のギリシャ語写本、もしくは初期の翻訳のいずれにも、またウルガタ[訳]そのものの最良の写本にもない」と述べている。「ギリシャ語新約聖書の本文に関する注解」という本の中で(1975年,716‐718ページ)、著者ブルース・メツガーはその偽筆の章句の歴史を詳細にたどっている。同書によれば、その章句はまず最初に、「リーベル・アポロゲーティクス」と題する4世紀の論文に見いだされており、西暦6世紀から聖書の古ラテン語とウルガタ訳の写本に現れ始めている。カトリックとプロテスタント双方の現代の翻訳は全体として、偽筆であるというその性格を認めているゆえに、この句を本文の主文には含めていない。―「改訂標準訳」(1962年、英語)、新英訳聖書」(1970年、英語),「新アメリカ聖書」(1970年、英語)。
擬人法は性格を有する存在であることを示す証拠とはならない
イエス・キリストは確かに、聖霊のことを「助け手」と言い、そのような助け手が「教え」、『証しし』、『証拠を与え』、『案内し』、『話し』、『聞き』、また『受ける』と言われた。そのように言われた際、元のギリシャ語はイエスがその「助け手」(擁護者)を指して男性形の人称代名詞を使われたことを示している。(ヨハ 14:16,17,26; 15:26; 16:7‐15と比較。)しかし聖書の中で、実際には人格的存在でないものが人格化、もしくは擬人化されるのは珍しいことではない。「箴言」(1:20‐33; 8:1‐36)では、知恵が擬人化されている。元のヘブライ語では、知恵という語に関連して女性形の代名詞が使われている。マタイ 11章19節やルカ 7章35節でも知恵は擬人化されており、これらの句では知恵は「働き」もあれば、「子供」もあるものとして描かれている。使徒パウロは罪や死、それに過分のご親切をも「王」として人格化した。(ロマ 5:14,17,21; 6:12)パウロは罪が「誘いを受け」、「貪欲を生み出し」、「たぶらかし」、『殺す』と言っている。(ロマ 7:8‐11)しかし、パウロが罪は実際に人格的存在であると言っていたのでないことは明らかである。
ゆえに、聖霊に関するイエスの言葉を収めたヨハネの記述についても同様で、イエスの述べた言葉は文脈に基づいて考慮しなければならない。イエスはその霊のことを「助け手」(ギリシャ語では男性実名詞パラクレートス)として語った時、聖霊を人格化された。ゆえに、ヨハネがイエスの言葉を、男性形の人称代名詞を使って霊の「助け手」としての面に言及した言葉として表しているのはもっともなことである。一方、同じ文脈の中で、ギリシャ語のプネウマが使われている場合、プネウマそれ自体は中性形なので、ヨハネは聖霊に言及するのに中性形の代名詞を用いている。したがって、パラクレートスに関連したヨハネの男性形の人称代名詞の使い方のうちに示されているのは、教理上の表現ではなく、文法上の規則に従った一例である。―ヨハ 14:16,17; 16:7,8。
人格的存在としての実体を明らかにするものがない
神ご自身は霊であり、聖なる方であられ、またその忠実なみ使いである子たちも霊であり、聖なる者であるから、もし「聖霊」が人格的存在であるとすれば、その霊者をそれら他のすべての『聖なる霊』と区別し、その実体を明示する何らかの方法が当然、聖書中に収められているべきであろう。聖霊が「神の聖霊」と呼ばれたり、同様の何らかの表現で修飾されたりしていない場合にはすべて、少なくとも聖霊という語と共に定冠詞が使われているものと考えられるであろう。そうであれば、少なくともTHE Holy Spiritとして区別されるであろう。ところが、それとは逆に、多くの場合、「聖霊」という表現は元のギリシャ語では定冠詞を伴わずに出ており、このことは聖霊が性格を有する者ではないことを示唆しているのである。―使徒 6:3,5; 7:55; 8:15,17,19; 9:17; 11:24; 13:9,52; 19:2; ロマ 9:1; 14:17; 15:13,16,18; コリ一 12:3; ヘブ 2:4; 6:4; ペテ二 1:21; ユダ 20。