釈迦
釈迦(しゃか、シャーキャ、zaakya、शाक्य) (前463年 - 前383年、前566年 - 前486年、前624年 - 前544年、誕生日4月8日、命日2月15日)仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ (zaakya‐muni、शाक्यमुनि (sanskrit))の略。釈迦牟尼世尊ともいい、略して釈尊(しゃくそん)ともよばれる。原語の「シャーキャ・ムニ」は「釈迦族の聖者」の意味である。
仏としての釈迦は釈迦如来を参照。
紀元前7~6世紀頃のネパールの部族は、釈迦族を参照。
生涯
誕生
釈迦は現在のネパールのカピラヴァスツ(迦毘羅城、kapila-vastu)に国家を形成していた釈迦族の出身であった。釈迦の故郷であるこのカピラヴァスツは今のネパールのタライ地方 (tarai) のティロリコート (tilori-kot) 付近を中心とする小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。家柄は王 (raaja) とよばれる名門であった。このカピラヴァスツの執政官、浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ (Zddhodana)を父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘摩耶(マーヤ (maaya))を母として生まれた。母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニ (lumbini) の花園で休んだ時に誕生したと言われる。ガウタマ・シッダールタ (Gautama siddhaartha(梵)、Gotama Siddhattha (パ)) と名づけられた。生後一週間で母の摩耶は亡くなり、その後は母の妹、摩訶波闍波提(マハープラジャパティ、mahaaprajapati) によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったから、摩耶も摩訶波闍波提も浄飯王の妃であった可能性がある。釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられている。
釈迦は浄飯王らの期待を一身に集め、2軒の専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で従妹の耶輸陀羅(ヤショーダラー (yazodharaa))と結婚し、一子、羅睺羅(ラーフラ (raahula))を儲ける。
出家
当時はウパニシャッド哲学を基盤としながら、ベーダ経典の権威を認めない自由思想家が多く現れた時代であった。釈迦もその潮流を受けて、人生の無常の現実に苦悩する毎日を過ごした。29歳、出家。沙門(しゃもん ((sanskrit) zramaNa))となって修行の道に入った。この出家の顛末を寓話的に表したのが四門出遊の話である。
最初にアーラーラ・カーラーマ (aalaara kaalaama (sanskrit)) に、次にウッダカ・ラーマプッタ (uddaka raamaputta (sanskrit)) について、伝統的な修定による行をする。しかし、彼らの段階まですぐに到達しながら、真に人間の苦悩の解決にはならないと、彼らの下を去って、マガダ国ウルヴィルヴァー (uruvilvaa (sanskrit)) のセーナー (senaa (sanskrit)) 村で6年の苦行生活に入る。この苦行は、他の沙門の誰よりも厳しいものであったと、後に釈迦自身が回想している。ところが、この苦行によっても現実苦を超克することができない。
成道
そこで釈迦は、まったく新たな独自の道を歩むこととする。ともに苦行を行っていた5人の沙門と別れ、尼連禅河(にれんぜんが、ネーランジャナー (nairaJjanaa (sanskrit)))で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala (sanskrit)) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを成道と言い、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修する。釈迦は、この悟りを得た喜びの中で、このまま浸っていようと考える。一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われる。ところが梵天によって衆生に説くよう勧められる(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むバーラーナシー ((sanskrit) baaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
釈迦は、初めて5人の仲間にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この時初めて、釈迦は如来(タターガタ (tathaagata (sanskrit)))という語を使う。すなわち「ありのままに来る者」「真理のままに歩む者」という意味である。それは、現実を現実のままに認識し生きていくことを意味している。
初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(応供(漢訳)、arhan (sanskrit))あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言っている。次いでバーラーナシーの長者、耶舎(yazas (sanskrit))に対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えている。
教団
その後、当時有名だった事火外道(じかげどう)の3迦葉、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa (sanskrit))、ナディ・カッサパ (nadi kassapa (sanskrit))、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa (sanskrit)) を教化して、千人以上の構成員を持つようになった。ついで王舎城(ラージャグリハ、(raajagRha (sanskrit)))に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えている。
王舎城に入って、頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ (bimbisaara (sanskrit)))王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎 (veNuuvana-vihaara (sanskrit)) を寄進する。 ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人は舎利弗(シャーリプトラ、zaariputra (sanskrit))であり、もう一人は目連(マウドゥガリヤーヤナ、maudgalyaayana (sanskrit))であった。この二人は後に釈尊の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈尊の弟子アッサジ (assaji) 比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、舎利弗は叔父の長爪婆羅門を教化した。この頃に摩訶迦葉(マハーカッサパ、mahaakassapa (sanskrit))が釈迦の弟子になった。
以上がおおよそ釈迦成道後の二年ないし四年間の状態であったと思われる。この間は大体、王舎城を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依し、後に持律第一とよはれた優波離(ウパーリ、upaali (sanskrit))も、このころに釈迦に帰依したと思われる。このようにして、教団の構成員はだんだんと増加し、ここに教団の秩序を保つために、いろいろの戒律が設けられるようになった。
伝道の範囲
これより後、最後の一年問まで釈尊がどのように伝道生活を送られたかはじゅうぶんには明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、釈迦族の子弟たち、羅睺羅、阿難(アーナンダ、aananda (sanskrit))、阿那律(アニルッダ、aniruddha (sanskrit))などが弟子となった。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえはクル国 (kuru (sanskrit)) のカンマーサダンマ (kammaasadamma (sanskrit)) や、ヴァンサ国 (vaMsa (sanskrit)) のコーサンビー (kosaambii (sanskrit)) などである。成道後十四年目の安居はコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー、zraavastii (sanskrit))の祇園精舎で開かれた。
このように釈迦の教化され伝道された地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでおり、弟子となった人々の地域もこれらの範囲であったと思われる。
入滅
釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の長阿含経の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の大般涅槃経 (mahaaparinibbanna-sutta (pali)) などの記録である。涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、コーサラ国王波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット、prasenajit (sanskrit))の訪問をうけ、最後の伝道が王舎城から開始されることになったのであろう。
このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子、毘瑠璃(ヴィルーダカ、viruuDhaka (sanskrit))が兵をあげて王位を奪った。そこでプラセーナジット王は、やむなく王女が嫁していたマガダ国の阿闍世王(アジャータシャトゥル、ajaatazatru (sanskrit))をたよって行ったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。
ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァスツの攻略にむかう。この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って二度阻止したが、ついにカピラヴァスツは攻略された。しかし、またこのヴィルーダカも戦勝の宴の最中に落雷によって死んだと記録されている。かくして釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。
釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ (ambalaTThika (pali)) へ、ナーランダ (naalanda pali)) を通ってパータリガーマ (paaTaligaama (pali)) に着く。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra (sanskrit)) であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説く。
釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着く。ここで亡くなった人々の運命について、阿難の質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道とのとうとい真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もほや生存に戻ることほない」と説法した。
次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマ (nadikagaama (sanskrit)) を経てヴァイシャーリー (vaizaalii (sanskrit)) に着く。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリ (ambapaalii (sanskrit)) という遊女のマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ (veluva) 村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここで阿難などとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。
この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終る頃には気力を回復した。この時、阿難は釈迦の病の治ったことを喜こんだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるほずはないと、心を安らかにもつことができました」と言う。これについて、釈迦は「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。‥‥自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」と説法する。これが自帰依自灯明、法帰依法灯明の教えである。
やがて雨期もおわって、釈迦は、ベーシャリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪れられ、托鉢から戻って、アーナンダを促してチャパラの霊場に行かれた。ここで聖者の教えと神通力について説かれた。
托鉢をおわって釈迦は、これが「如来のベーシャリーの見おさめである」といわれ、バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaama)、ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経てパーヴァー (paavaa) に着く。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。
釈迦は、ここで鍛冶屋の純陀のために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになる。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaaraa) にむけ、その近くのヒランニャバッティ河のほとりにゆかれ、マルラ (malla) 族のサーラの林に横たわり、そこで入滅された。時に前386年2月15日のことであった。これを仏滅(ぶつめつ)という。
釈迦の入滅年時については、古来いろいろの説がある。一般には前486年(衆聖点記説)を用い、宇井伯寿の前386年説も学界に用いられている。
さて、仏陀入滅の後、その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、仏陀の舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否した。そのため、遺骨の分配について争いが起こるが、香姓(ドーナ、dona)婆羅門の調停を得て舎利は八分され、おくれてきたマウリヤ族の代表は灰をえて灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、(1) クシナーラーのマルラ族、(2) マガダ国のアジャタシャトゥル王、(3) ベーシャーリーのリッチャビ族、(4) カビラヴァストフのシャーキャ族、(5) アッラカッパのプリ族、(6) ラーマガーマのコーリャ族、(7) ヴェータデーバのバラモン、(8) バーヴァーのマルラ族である。
入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集(けつじゅう)した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。
釈迦の生涯を伝える文献
修行本起経〔大正・3・461〕 瑞応本起経〔大正・3・472〕これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。 過去現在因果経〔大正・3・620〕普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。 中本起経〔大正・4・147〕成道から晩年までの後半生について説く。 仏説衆許摩房帝経〔大正・3・932〕 仏本行集経〔大正・3・655〕これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。 十二遊経〔大正・4・146〕成道後十二年間の伝記。 普曜経。 方広大荘厳経-これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。 仏所行讃〔大正・4・1〕 (Sanskrit, Buddha-carita) 馬鳴著 Lalita vistara Mahavastu 遊行経 『長阿含経』中 仏般泥画経 (Pali, Mahaparinibbanna sutta) 大般涅槃経 法賢訳・・・以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの- 注 〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
- 注 〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
関連項目
釈迦三尊 釈迦堂 釈迦派(サキャ派) 仏舎利