豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ・の・ ひでよし、天文55年1月1日(天文6年2月6日とも)(1536年) - 慶長3年8月18日(1598年9月18日)は戦国時代・安土桃山時代の武将。法名は国泰祐松院殿霊山俊龍大居士。
織田信長の事業を受け継ぎ、天下統一を成し遂げて、戦国時代を終結させた。関白となり、豊臣の姓を賜って、豊臣政権を新たに開いた。
尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の出身。貧農の子とも、足軽の子とも言う。はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り、今川氏の配下にある遠江の松下氏に仕え、のち織田信長に仕えて、次第に頭角をあらわす。墨俣一夜城建設に功績を上げた逸話が有名だが、当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。
1568年信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任され、当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。浅井長政・朝倉義景との戦いに功績をあげ、1573年浅井氏の旧領北近江三郡に封ぜられて長浜城の城主となる。この頃に丹羽長秀と柴田勝家から一字づつをもらいうけ、木下を羽柴に改めている(羽柴秀吉)。その後中国地方攻略を命ぜられ、播磨・但馬・因幡を征服、備前・美作の宇喜多氏を服属させて毛利輝元と戦った。 この中国攻めでは、三木城の兵糧攻め・鳥取のかつえ殺し・高松城の水攻めなど独特の戦い方が有名である。
1582年、本能寺の変で明智光秀により織田信長が殺された時には備中国高松城を攻めていたが、すぐさま毛利氏と講和し、京都に軍を返して(「中国大返し」)、山崎の戦いで光秀を破る。この功績により清洲城での重臣会議で主導権を握って、柴田勝家・滝川一益・織田信孝を賎ヶ岳の戦いで倒し、丹羽長秀・池田恒興を従え、小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と和して、織田信長の実質的な後継者となった。
1583年、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。1585年には関白となり、さらに翌年豊臣の姓を賜って太政大臣に就任、政権を確立した。前後して紀州征伐、四国征伐、九州征伐を行い、西日本の全域を服属させる。1590年に関東に遠征、小田原城を包囲して北条氏を倒し、陸奥の伊達政宗ら東北諸大名をも従えて、天下を統一。ここに戦国の世を終わらせた。その翌年に関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
1592年から朝鮮に出兵(文禄の役)したが、朝鮮各地での義勇軍の激しい抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍と、明から援軍が送られてきたことで戦況は悪化し、休戦した。しかし、まもなく講和が決裂し、1597年再び朝鮮出兵が行われた(慶長の役)。秀吉は、その最中の1598年8月18日、伏見城で没した。享年62歳。
辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。
秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される。
墓所・霊廟
死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社に祀られたが、徳川幕府により廃された。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。高野山奥の院にも墓所がある。
秀吉の親族
弟:豊臣秀長 甥:豊臣秀次 甥:豊臣秀勝 子:豊臣鶴松 子:豊臣秀頼
秀吉の養子
羽柴秀勝(織田信長の四男) 宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子) 豊臣秀勝(秀吉の姉とも(日秀)と三好吉房との間の子、羽柴秀勝を継ぐ) 豊臣秀次(秀吉の姉とも(日秀)と三好吉房との間の長男で、豊臣秀勝の兄) 結城秀康(徳川家康の次男) 小早川秀秋(秀吉の正室おね(高台院)の甥)